=懐かしきジムカーナ時代!= |
ジムカーナの灯りを消すな 反省と希望をこめて 鈴木正吾 |
5年前に年間100戦を超えたジムカーナが、昨年度は100戦を割り、更に今年はカレンダーに 登録済みの上半期のものだけで約30戦、この調子で行くと年間80戦程度になると予想される。 ジムカーナと言えば、素人にも入り易いもっともポピュラーな競技とされている、 そのジムカーナの人気がこの様に低下してきたのは何が原因なのだろうか、ジムカーナの最盛期 からずっと競技をつづけて来た張本人の1人として、反省と希望をこめてこの原因をさぐって 見たいと思う。その前に5~6年前のジムカーナの様子を見てみよう。 ○最盛期は昭和45年だった 何といってもジムカーナの最盛期は昭和44年から48年までの4年間だ。この頃ジムカーナは毎年200回以上、 参加台数も15000人以上であった。当時のジムカーナのコースは、関東では、大礒ロングビーチ、狭山湖スキー場 駐車場、ドリームランド駐車場、船橋サーキットのインフィールドが主力で、その他に自動車教習所や飛行場なども 単発的に使われており、FISCO駐車場などはたまにしか使われていないのは、それだけ使えるコースが豊富に あったからだ、ジムカーナのこの盛況を見てSPSのように専用コースとして営業を始めたところさえ出てきたくらいだ。 一方関西では、はじめは主として自動車教習所がコースとして使われていたが、昭和44年にビワ湖スピードランド が出来てからは、もっぱらここへ集中、他のジムカーナは殆どなくなってしまった。ここはジムカーナ場とはいっても ミニサーキット的なコースなので、ここのジムカーナはむしろタイムトライアルといった方が適当かも知れない。 そして関東風のパイロンジムカーナに対して、関西風のハイスピードジムカーナが育っていった。 この他、鈴鹿サーキットでは独特のジムカーナが行われていた。ここは教習所コースで、毎回同じコースが使われ 早くからノーマル部門があった。その他、ローカルのジムカーナが、浜松、山形、千葉などの各地で行われていた。 ○当時のドライバー達 当時のドライバーは、関東ではジムカーナキングといわれた中村昌雄(SR311)と、植埼聡(ホンダS800)がもっぱら 優勝をかっさらっていた。関西のチームとしては、ゴールデンステアリングクラブが圧倒的に強く、川田健次、田村弘近 堀江実、安田進などが入賞していた。この他清水明文、吉本博雪、熱海浩征、春山国雄、猿恭司、大塚康興、長谷川清 青木隆、関慶一、長瀬好隆、小峰順久、などが懐かしい名前だ。この頃走っていた中で後でレースで名を上げたのが 久保田茂、秋山十三雄、黒沢俊武、など、この後で村井直男、三武務、井上武司などのあじさい勢の他、渡辺孝夫、 高沢敏夫、水谷志浩、浅井里雄、小野繁などが登場する。 昭和45年大礒ロングビーチで待望の東西対抗ジムカーナが開かれた。東西より各クラス3名ずつ、15名、合計30名 の選手が集まって覇を競った、コースはパイロン式のものだったせいもあり、東京勢の圧勝に終わったが、東の中村昌雄 に対し関西のジムカーナキング藤堂博のSRによる一騎打ちは当時話題を呼んだものだった。 白井秀典は今では、レースチューニングショップの経営に専念しているが、当時はカローラで無敵を誇りカクカクたる戦果を 誇っていたものだった。この他関西より参加した選手で上位に入ったのは大橋伊市、政井武雄、柏田正輝など、1位は何れも 関東勢で、榊原公業、村井直男、長瀬好隆、鈴木初男、中村昌雄の5名だ。 ○当時の車 当時の車は、今のようにサニーとレビンが殆どで、ブルとFTOがちょろちょろというのとは違い、バラエティに富んでいた。 まずミニクラスは、ホンダN360が強く、そのあとだんだんフロンテに移っていったが、キャロルあり、ミニカ、ダイハツフェロー ありの華やかさ、1300cc迄のクラスはカローラが多く、勿論サニー、時々優勝もする丸山紀男のコンテッサ、青木隆という 好騎手を得て只1台良い成績を挙げていたファミリア、それにミニクーパーやVW迄加わっての大熱戦だった。 その上のクラスはブルーバードにコロナMKⅡ、レースで連勝したスカG、外車ではアルファロメオ、たまにはロータスヨーロッパ、 ポルシェなど、たまにはグロリアやセドリックもご愛嬌に顔を出す。GTクラスはホンダS800トヨタS800がしのぎをけずる。 SR311もよく走っていた。ロータスエランやトライアンフも顔を出す。 何しろ、1300ccクラスなどは1クラスだけで50台以上、全部で150台以下のことはめったにない、という頃だったから、 今考えて見れば夢の様、それでも章典は6位まで、今のようにクラスが2~3台で全部入賞なんて甘いものではなかった。 参加者がたくさん集まれば主催者も気前が良い、1等はステレオやテレビ・・・・・・・なんてところもあったようだ。 ○オーガナイザー 年間はイベントの数も多いだけあって、オーガーナイザーも多かった。大礒を本拠とするTACS、バーダル、黒潮クラブ チームエイト、横浜ドリームランドではNAC、狭山スキー場駐車場ではTRF、船橋サーキットでは日刊スポーツ、T-8、 NDC東京、富士スピードウェイではFISCOクラブ等、一方関西ではもっぱらビワ湖スピードランドが使われ、OSCC,OCCK, ORCC,HASCなどによって毎日曜のようにジムカーナが行われていた。 ○現在では 年間272回のイベントが行われた昭和45年を峠として、ジムカーナは時除々に衰退して行ったが、特に大都市近辺は 急速に減っている。昨年はスピード行事全部で145のうち、ジムカーナは117で、ダートトライアルがかなりふえている。 今年は更にその傾向が強いと思われる。48年から49年にかけて関東近辺では極端に減っており、シリーズ戦を組んで いたのは、バーダル、エコー、ミサトの3つに過ぎず、参加者が集まらないためやめようとするクラブすら出てきていたが、 これではいけないと6クラブが東日本ジムカーナ主催クラブ連合を結成、50年よりチャンピオンシリーズを始めた。 現在では、改造車専門のエコーシリーズと、ノーマルも含めて幅広く参加者を集めている東日本シリーズが、関東における 主なジムカーナイベントとなっている。昨年からtmscがノーマルを主流とするシリーズ戦を始め、今年も行われる予定だが その1部は東日本」のシリーズに組み込まれる模様で、NDC東京も秋からこのシリーズの仲間入りをする。 この2~3年のトップドライバー達を紹介しょう。5~6年前まで」のドライバーはほとんど残っておらず、例えば、黒川政之 、松本貞一、牧方政明、砂山富男、ノーマルでは稲村政幸、佐藤敏美、田島清広、安田守、などの他、エコーシリーズで 活躍している、栗田吉晴、市川隆久、杉本行男、山口友孝などだ。 現在のドライバー達のテクニックが昔と比べて劣っているのではないかという人がいるが私は決してそうではないと思う。 昔と違ってパワーに物をいわせた一見華やかに見える走法は確かに姿を消し、昔植崎聡が主張していた地味だがキメの 細かい頭脳的なテクニック、いわばジムカーナ本来のそれが幅をきかせている。派手ではないが彼らのタイムはきわめて 良い、特に最近はノーマル車によるテックニックが見ものだ。排気音も小さく激しいロールする車の走りっぷりは、レース的な 華やかさはなく素人目には受けないが、実はこれは大変なテクニックが必要なのだ。ジムカーナの醍醐味は実はこの辺にあるの ではないかと私は思う。 昔はなかった走り方にスピンターンがある。3年ほど前に小野繁がこれを盛んに使い、雑誌に発表して以来急にはやり始め、 今ではスピンターンをやらないドライバーは少ない。ところが、これも使いようによっては、とんでもないマイナスになる。 ターンしたとたんにとまったり、ましてアサッテの方を向いたりしたらそれこそみじめなことになる。ターン後の動きにうまくつながら ないとかえって遅くなるなってしまう。うまい人はノーマル車でもあざやかにやってのけ、1~1,5秒を楽にかせぐ。 車のチューニングは、昔と比べるとずい分楽になった。バンのデフキヤをもって来たりスプリングをちょんぎったり、ショック の油を入れ替えたり、エンジンでは、別のエンジンのバルブスプリングをもって来て2重にしたり、インテークマニホールドを 鉄板で作ったり、そんなそんな手間は一切必要なく、スポーツキットを買えばチューニングショップで一切やってくれる。 贅沢を言えば、東名など有名チューニングショップでフルチューンに仕上げることもできる。…・・恵まれているといおうか、 早く走れる要素は十分ある。というぜいたくな現在のこの環境の中で、なぜジムカーナは低迷しているのだろうか。 ○いくつかの原因を考えて見た ・プロダクションレースなど安易に入れるレースが出てきた・・・・・(とはいってもジムカーナよりはるかにお金はかかるのだ) ・ジムカーナは時間も短いし華やかさがない、・・・・・(派手好き、カッコ良さをあこがれる若者にとっては、若干物足りない かもしれない、しかし台数が集まった5~6年前は結構派手だったのだが) ・開催場所が遠くなった・・・・・(これはいえる昔狭山のジムカーナは最大のエントリーを誇った4ものだ) ・エントリーフィーが高い・・・・・(5~6年前の3千円に比べて、物価から言えば5千円は決して高くないのだが、これでも 台数が少ないのでオーガナイザーは四苦八苦」だ) ・商品が良くない・・・・・(参加者が少なければ、経済的な余裕がないので当然だし、これは悪循環になる。しかし、競技を 純粋に楽しむのなら問題にはならないはずだ) いろいろ考えてもこの程度のことしかわからない。これらが総合的に作用しているのだろう。それにオイルショック以来の 不景気が響いていることも否まない事実だ。 ○ジムカーナの灯を消すな そんな困難の中で、我々オーガナイザーの合言葉は「ジムカーナの灯を消すな」である。 ほっておけば、経済的に「合わない」からとオーガナイザーは皆やめてしまうだろう。いくら好きな道とはいえ、貧弱な財布 をはたいてプライベートクラブの出来る範囲は限られている。「気楽に楽しめる健全なモータースポーツ」の発展を願って、 我々オーガナイザーは今年も頑張っている。 ところで、ジムカーナを更に発展させて行くためにいくつかお願いがある。1つは、この雑誌を含めてジムカーナの記事を 増やしてほしいこと。特にJAFスポーツは、何の因果かジムカーナの成績をサッパリ載せてくれない。経費削減による減頁 ということもあろうが、レースばかりがスポーツではあるまい、同じ組織申請料を払っているのだからママ子扱いはやめて 欲しい。ジムカーナの様な底辺の競技を育てて行かないと、やがて日本のモータースポーツは滅びてしまうのだ。F-1レー スに注ぎ込む努力と金の何十分の一でもジムカーナなどの底辺競技の育成に使ってもらいたいと願うのは筆者だけではあるまい。 現にその影響が数字に出てきている。Bライセンス所持者の数が、最盛期の半分になっていることをご存じだろうか。 みんなで手を携えて、モータースポーツを発展させるため、努力しようではないか。 76年03号 オートテックニック誌より抜粋 |